2013/08/29

ふたたび「私が、生きる肌」

もう一度「私が、生きる肌」を観た。
やっぱり変態的だった。
こまかい点に気付いた。

狂気の形成外科医ロベルが監禁しているビサンテの元に行き、ライトをかざす。
その肌の品定めをするのである。
肩に真紅のタオルをかけたロベルの姿はまさにキリストだった。
だが、彼は神ではなかった。

全ての皮膚を移植してその人を別人に変えても心までは変えられない。
皮膚はその人の外面を形作るが、心の入れ物にすぎなかった。

亡き妻の分身を創作し望むすべてを手に入れたかに見えたロベル。
結局妻の心も娘の心も手に入れることができず、さらには母の心さえ知らないロベルは実に哀しい人物だった。

後半に彼が盆栽のようなものをやっているシーンがある。
(盆栽にしてはでかすぎるが…)
彼は意のままになる盆栽が好きだ。それは人口的な箱庭だ。
彼は「普通の世界の人」ではなかった。
彼は屋敷の中で何をしていたか。


ビサンテは服屋をしている。
冒頭に登場するロベルの腹違いの弟"トラ"は虎の仮装で現れるし
ロベルはしごとから帰るときつく絞めたネクタイを緩める。
手術のときは緑色の手術着を着る。
メイド、マリアナは制服を着て仕事モードに入ったり、
娘ノルマはパーティの歩きにくいパンプスを「閉所恐怖症になりそう」と脱ぎ捨てる。
ベラは肌色のボディスーツ姿だ。

服はその人が何者かを語る。
ベラが服を切り刻むシーンがたびたびある。ベラの「自分は何者か感」は壊れていたのである。

服そのものが「私が、生きる肌」でもあるんだと思った。

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