人を好きになってそれまで灰色していた世界に色がついてしまった。
それはきけんな色だった。
私はうれしくもあり、未知なるしあわせに戸惑いを感じたものだった。
しあわせになっていいのかどうかと。
中央線に座れずに窓越しに立ち、走り去る街並みを眺めてさ、
この世が灰色のままならよかったかとか考えて、
よろこびもない代わりに心がねじれるようなこともない方がよかったって考えて。
人を好きになってそれまで灰色していた世界に色がついてしまった。
それはきけんな色だった。
私はうれしくもあり、未知なるしあわせに戸惑いを感じたものだった。
しあわせになっていいのかどうかと。
中央線に座れずに窓越しに立ち、走り去る街並みを眺めてさ、
この世が灰色のままならよかったかとか考えて、
よろこびもない代わりに心がねじれるようなこともない方がよかったって考えて。
他人はやさしい台詞をはいてもそれはその場しのぎの嘘、
いつでも私を棄てるから心を開いて信用してはいけない、
私は自分の意思よりも人の欲求を優先させなければ一緒にはいられない、
そのようなネガティブな世界に対するイメージが、私を生きていたくなくする。
そのような捉え方の癖は今までの人間関係の中で身に付いた。その人間関係のベースは、幼い頃の親との関係の中で決まってきた。それは大人になるにつれ違和感になり、自分を苦しくし始めた。
しあわせになりたいのにそれを阻む考え方の歪みが私の内に住み着いてる。
自分のしたいようにしたり、他人の欲求に飲まれすぎないようにすると罪悪感を感じる。
悪いことしたかなとか、これでいいんだろうかとか、自分に素直になることがかえって自分を不安にし悲しくさせ苦い気持ちにさせた。
好きなものを好きという恥ずかしさ、好奇心を持つことの罪悪感、
しあわせに対する恐怖、そんな不思議、私の中での当たり前を追い出したい。それをゆっくり外していくこと、親は私がちゃんとしてないと許さなかったかもしれないけど、どんな私でもいいって言ってくれる人がいるはずで、私が自信をもって素直であれば、他人に優しくする前に自分にももっと優しくあれば、ネガティブな世界に対するイメージはだんだんと温かいものになっていく。
温かい人との出会いの中で、自分もしあわせになっていい、人を信じていい、そういうふうに思えるよう変わっていけたらな。
式はしない、人からあんなに注目されたら私は不安で死んでしまう…
人を好きになる、また恋をすることはあるだろうかと思ったとき、ないかなってちょっと思う。
お互いに必要とし合う人、いっしょに暮らしたい人が現れるだろうか。
たぶん、むりなんじゃないか。
泣いたり傷ついたりもうやなんだよー
40歳、50歳になってひとりはいやだけど
私はむりなんじゃないか、と思う!
60歳くらいになってまだひとりだったらさすがに慣れるかなと期待しつつ
そのときもいつかはしたいと思ってるかな。
ディズニーランドの写真があった。ミッキーやミニーやらグーフィーやら…なんでこんなにひたすらミッキー達を撮るのかなと思ったけど見慣れているディズニーの写真を見ているうちに「嘘の嘘は本当」と言った篠山の言葉の意味がどういうことなんだろう?と不思議に思えてきた。
嘘っぱちで虚構のかたまりであるミッキーを私たち日本人はとにかく大好きで、ディズニーランドは偽りの世界の際たるものとして色鮮やかな色彩を放っている、満面の笑みをたたえたミッキーの顔はぴくりともしないが確かに笑っていて、私たちをも笑顔にさせる力をもっている。それもまた真実だと気付く。
その他には、1995年の大相撲の写真がありました。
迫力と奥行きがすごくて力士ひとりひとりの瞳に熱いものがあった。1995年といえば貴乃花、若乃花、小錦もいて相撲界が盛り上がっていた時代だったんだと思う。きっと写真の神様が降りて来た瞬間だったんだろうと思った。
一緒に行った母は板東玉三郎の歌舞伎姿が特に気に入っていた。篠山紀信はこの人の妖しさに魅せられたくさん写真を撮っています。確かに…この人だけ格別に妖しく、撮りたくなる美しさが分かる。
虚構に真剣になるという、嘘の中の真実が垣間見えた。
最後に、東北の各地を回って撮影した人々の写真もありました。
一般の人々の素の姿をとらえている篠山紀信ぽくないものだった。
後ろにはぼんやりとだけど半壊した家や瓦礫が写っていた。
あー、このお母さんは、きっと優しいお母さんなんだろうな、涙や不安を見せないように気丈にしているけど息子が心配で仕方がなかっただろうなと物語が見えてくるようだった。
私が何をして自分がしあわせであるかはアロマセラピストとしての仕事ができているかどうかが大きいと感じた。
それがない私は、卵の腐ったのか床に落ちた陰毛か。そのくらいで。
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1年ほど前「死人のようなセラピスト」と言われた。
今でも死人度はあまり変わっていないがセラピストと名乗る自分がセラピーを必要としているくらいだったとはそんな仕事やめた方がいいくらいだ。(誰もしあわせにしていないから)
お客さんの心を溶かすってどういうことなのか考えた。
お客さんの心にできる限り寄り添おうとすることは自分の心を溶かすことにもなっていた。
けっしてお客さんの心を溶かせた、とは思わない。寄り添えたとは思わない。けど
寄り添おうとする力が、お客さんの心を動かす。
手はいやというほど気持ちを伝えてしまうからねぇ。
この仕事には向き不向きがあるかなとは思う。努力で補えることもあるかなとは思うけど
端からセンスがあるかないかもちょこっと関係あるかなとは思う。
初心者の練習台になったことがあるけど、まったくの素人に体を触られることは恐怖だ。
つぼのズレてるところを力いっぱい押すからねぇ。
センスのあるかないかはそのくらいの時点で分かるんだと思う。
へたでもセンスのある人だと。
アロマの学校の先生の言葉をたびたび思い出す。
授業中、先生のでんわが鳴って授業が一時中断したとき、私はモデルの女性の背中にタオルをかけた。
中断している間、裸の背中を出していれば寒いだろうから。
電話の後、先生はあなたはすてきなセラピストになれるわよ、と言ってくれた。
ちょっとした気遣いの気持ちがあればすてきなセラピストになれる、と。
当たり前のことがふとできること。
人に思いやりをもつことは教えてもらったらできることではなくて、小さな頃から、人間になったときから、
ちゃんと自分の心の中にもっているならできる、ということ。それを使う。
今でもそのことばのありがたさだけでセラピストをしていようと思えています。
私の接客だとが技術だとか話術、人となり…そういったことにはまったく自信がないものだから。
今日はアロマトリートメントを施しました。
精油はユーカリ、レモン、コリアンダーをブレンドした。
お客さんにローズマリーとユーカリ(どちらも似ている)を嗅いでもらって
お客さんがユーカリがいい、と言ったのでこのブレンドになった。
1時間のコースだと全身を施術するには時間が足りない。あおむけ時の足かデコルテがどうしてもさらっとになってしまう。
時間内で足らせるのがプロなのだろうが…
お客さんの体のことを想い、その人のことだけを考え、その"てあて"だけに意識を集中させることのできる時間は自分にとっても大切な時間で
もう一度アロマセラピストになってお客様の体に触れさせてもらえるのならどれだけしあわせだろうと思った。
生きていさえすればいい、ということがある。
人間は、すべての動物は、しあわせになるために生きている。
初老のサラリーマンだった。
めがねで細身で。笑顔だった。
都会の真ん中で頭にマフラーをしているはずかしさから私は笑って
大丈夫です、とその人から遠ざかったけれど
すてきな人だなと思った。
久しぶりに胸キュン(古い)した。
ジェームス・スチュワート キム・ノヴァク 監督・アルフレッド・ヒッチコック
1958年作。
高所恐怖症を理由に警官を退職した男が、旧友にその妻を尾行することを依頼される。何かにとり付かれているような彼女を尾行するうちに男は彼女の虜になってしまう…。
おもしろそうでしょ?しかも見てよこのオレンジ。ナウいでしょ。
ヒッチコックの世界に一気に引き込まれた。
舞台はサンフランシスコ。
名所ゴールデンゲートブリッジ。時代は違えど住んでいたことがあるので台詞に出てきたコイト・タワー、エンバーカデロもだいたいの位置が分かって楽しく見れた。
サンフランシスコ特融の傾斜の激しい坂道。
尾行される女性キム・ノヴァクが美しい。凛とした眉も唇もほほ紅も、観ている側も一目で恋をしてしまうよ。
主人公ジェームス・スチュワートも背が高く紳士ですてきだ。
前半はロマンチックでミステリアスな雰囲気。何かが起こりそうな危うさを感じさせながら物語が進んでいく。そして終盤には…。
階段を上から撮りぐるぐると渦巻く描写はめまい。
台詞のいらない映像、色使い、音楽、アニメーション。とてもおしゃれでかっこいい上に無駄がない、どきどきする物語だった。"Vertigo" is quite dope and one of the best movie I have ever seen.
げー。か、彼らしい。。いらん提案を。。
いえいえすてきなサプライズですよ。。
私写真やビデオに撮られるのがすごくキライなんだけど。。
かわいい弟の頼みだからやるしかないね…!
主役は自分ぢゃないのだからなんてことのないことなのだがビビり。
ボイスメモに吹き込み練習するも、あのー、えー、が多く、主語と述語が合ってない。。で練習やめた…!
そのままの自分がぐちゃぐちゃならば、とりつくろったってもっとぐちゃぐちゃなんだ。
おさいふの中見たら所持金740円。ここから電車賃をひいたら何も買えない!
深夜の西友だったら買えるかな?
この子は20そこそこでばんばんイキまくっているのかと思うと単純にすごいというか、
いかないのが普通だと思ってたというか、
これが昭和と平成の違いかしら、
というか、
なぜ人前でそれほど解放的になれるのかただうらやましい。
なんだかいろいろとこねくり回されることや挿入されることははたしてどうでもいい…というか早く終わってほしいというか
(そんなことするくらいなら5m離れた場所から視姦してほしい…)
射精した後の男は寝ているかしょんべんしに行ってるか煙草吸ってるかベッドに腰をかけて…って何にしろあっち向いてるじゃないかー!
私は髪をなでてもらって、ちょっとぎゅっとしてもらって、おしゃべりをしたいので…
何この温度差。なんだコレ。このさみしい感情の行き場のなさどうしよっていう感じなんだけれど、
射精した後の男は本来の狩猟本能により、「ひとりになりたい」とか「種をたくさんバラまきたい」ので今バラまいた私のところに長居は無用だぜ、というか
そのような男女間の違いがあると知ってからは、
もう少し上手にセックスできそうな気がす…いやしない。