2013/01/30

ラプソディ・イン・ブルー

偉くなってからうんと早く帰宅するようになった父。
偉くなる前は早朝出勤し帰るのは23時頃だった、そのおかげで今そうだが
毎日コンビニに寄ってつまみとビール2缶を購入し
その日の朝刊ととともにいそいそとダイニングに広げては夜の早い時間から晩酌している父を
それしかやることないのかと呆れきっていたが
今その父と同じことをしている。
いやそれよりひどい状況の私だけど
仕事が終わった後のビールの美味さは格別なのはもちろん
そうでない日も日の高い時間からのビールプシュッに何の罪悪も感じない。
子どもの頃は仮病を使って休んだ日にはみんなが勉強しているであろう時間に家でゴロゴロすることに
罪悪感を感じたものだけど。
そしてたまには精神薬とアルコールを一緒に摂取する実験的試みをしてみれば
その直後から顔面が溶けそうな具合の悪さが襲い、頭が痛くなってもうこんなことはするべきでないと思うのだが
翌日にはそれもけろっと忘れてまた同じ人体実験をしてしまうのである。
医師が言うには「お酒強い人あまり眠剤効かないからね」。
父も母もお互い奪うようにして酒を飲むし妹も酒飲みが好むような珍味が好きだが私はアルコールには強くないと思っていた。
アルコールには気分を沈ませる作用がある。
精神薬の効能をアルコールで打ち消しながら飲んでいるのは不思議な感じだ。
あるとき医師に「セントジョーンズワートのハーブティーは飲んでもいいですか」と私は問うた。
私はセントジョーンズワートティーを紅茶代わりに飲んでいた。
医師は「飲まないで」と言った。
ある抗うつ剤の説明書きに「セントジョーンズワート含有物との併用はしないでください」
と書いてあるのはその薬と同じく気分を鎮静させるから併用すると同じ作用を増大させてしまうからだった。
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西村賢太の小説「苦役列車」に風俗嬢である女性のことを「糞袋」とあった。
そうした印象的な言葉が多いその小説だが、読んでいてそれが一番笑えるようで笑えない衝撃的な言葉だった。
苦役列車の主人公はそれは卑屈でいやな奴だけどこの人に感情移入する女の子って私以外にいるんだろうかと思った。
私は少しだけこの主人公の気持ちが分かった。のは自分が同じ部類の人間だからだ。
私は自分が風俗嬢でなくても糞袋である自覚があった。
糞袋とはひどい言い方だ。でも笑える。私は男性にとって糞袋にもなりうるんだ。そして男性は女性を、私を、糞袋として見ることもあるんだ。
そう思ったらおかしいやら悲しいやら腹立たしいやら、とにかくいろいろな理由で私は「糞袋」という表記を気に入った。
西村賢太。この人はお昼の有名番組で何の迷いもなく「デリヘル」とか言っちゃうような男だけれど
なんだか憎めないくまみたいでかわいいのは目が小さく、体つきはぽっちゃりしているからだ
そうそれはテディベアの形状と同じ。

2013/01/26

ドットのシュシュ。

何倍ものカフェインを摂取してブルブルこごえておりました。

頭はひとつしかないのにまた端切れでシュシュ作成。 
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あったかいドットのネルにラベンダー色のガーゼを合わせたら。我ながらラブリー★汗

2013/01/24

「結び目」



色がとてもうつくしい。
一眼レフの動画機能で撮影したそう。
木漏れ日はより温かく、森林の緑はより深く、蛍光灯の青はより冷たく、うつる。

台詞が少ないので表情で表現しなければならない役者さんの演技。とてもすばらしく引き込まれた。
生徒と教師という禁断の愛を14年前に経験し再会した二人はお互いにすでに家庭を持っていた。女はリアリスト。男は夢の中にいる。
人は身の丈にあった生活を送っていくものだな、と思った。

Untitled

足が…こごえて
眠れない…

2013/01/22

「自虐の詩」

自虐の詩 プレミアム・エディション [DVD]

ちゃぶ台返しばかりフューチャーされていたけど
不覚にもほろっとくる映画だった。
中学校時代同じビンボーと言われずっと友達でいると約束し合った主人公幸江と同級生熊本さん。
「「熊本さーん!」「森田さーん!「熊本さーん!」「森田さーん!」と
駅で泣く泣く別れを告げるシーンは
こういう女友達がいたらいいな、と思った…再会する場面にも二人手を取りあって泣き笑う。

そしてこの映画の舞台は気仙沼。今はなき気仙沼の港、町なみ、海。

中谷美紀はすきな女優さん。
「嫌われ松子の一生」もまた観ようかナ。

早起きしたある日の

もう大寒をすぎると陽の光があたたかく思えて手袋がいらないくらい。
それでもまだ寒いけど、茶色いあじさいがカラカラにしな垂れているのを見つけたり、こう指の隙間から陽に手をかざしてね、まぶしいな、と思ったり。
そんな感じで大学の構内を歩いていると、気持ちがすーとしてきた。

初めて読んだ「100万回生きたねこ」。
100万回死んでも、100万回生きても、悲しくなかったとらねこ。
美しい白いねこに「そばにいていいかい。」と言ってから、
ほんとうの意味で生きたとらねこ。の話。
こんな物語だったんだ。

100万回生きたねこ (佐野洋子の絵本 (1))

: :

駅のホームで体どうなってんの?ってかっこでちちくり合う高校生カップルに軽くイラッとしながらも(うらやましくて…)あてどなくこだちをさまよい都会の人人人から弾き出された。
献血ルームに行ってみた。
受付のお兄さん前回と同じ人かっこいくてさわやか、男前。
ちょっとお話してるうち
「成分献血の方がお好きですか?」と。
いやはぁ。好きも何も。お兄さん血フェチみたいでいややわぁ。
「っていうか…ああなたがスキです(≧∇≦)」
なんてギャグは言わんけども。
(成分献血だといらないもの戻ってくるから自分の身体が楽。戻ってくるときちょっとゾゾゾワワっとするけど)

そのあとお菓子をいただいたり、お茶を飲んだり雑誌を読んだりほえーとして過ごす。献血デートしてる人とかもいた。

もしこの血をすべて吸い出してあたらしく生まれ変わったなら…
やさしい人になりたい。

2013/01/20

愛や欲望や存在

「恋は欲望だ」
「愛は相手がそこに在ることをただ認めることだ」

欲望心とでもいうか(きれいにいうと恋心)が強い…。
自分を愛しもせず「相手のため」と言ってしていることは、結局自分のためだ。
相手の心に触れようとしていないから、そのあざとさが伝わってしまうようだ。
だからその人は愛されない。

セックスをするとぽっかり空いた心の穴がその一瞬埋まったような気がする…気がする…気がする…だけ!

ここで間違っていけないのはそれはあくまでそんな気がするだけだということだ。

埋まらないのですよ。そんなことをしても。何百、何千回しても、心の穴にパズルのピースのように相手を押し込んでも、それが決して自分の心の穴を埋めることにはならない。

セックスがきもちがいいのは、相手の心に触れたから。相手のことを本気で見ようとした、相手もあたしを見てくれたから気持ちがいいのです。

相手を受け入れないでするセックスは相手の体を利用した自慰。

園子温の映画を観たり二村ヒトシさんの発言を聞いてると愛や恋や自己肯定やセックスや親について考えすぎる。
園子温の映画は親の愛を得たかったけど得られないまま大人になってその自分を持て余して狂ってしまった人の映画。
昨日観た「恋の罪」の美津子(冨樫真)もそうかもしれない。

これだけやってあげてるのだから、これだけ返してよ、と求めるのはあさましい?セックスするのなら金を払え、と売春婦のような気持ちも…そんな風に思うのは私だけ?
セックスしたからと言って愛してもらえるとは限らない。
得られるか分からないあやふやなもののために大切な体を差し出すなんて…自暴自棄にでもなってなければしない。

愛情←→体
体←→金
愛情←→金
?????

美津子が、「愛してなければ金を取れ!その五千円はあんたがあんたの体を使って稼いだお金!今菊池いずみという名前が意味を持つ瞬間なのよ!」とがなる。

そこに意味を見出そうとすると美津子のようにおかしくなってしまうかも。
美津子は売春の額にはこだわっていなかった。
(東電OL殺人事件の被害者も風俗店に属さず立ちんぼになって個人的に客を取る危ない売春をするようになってからは数千円でも売春していた)
お金に自分の価値を見出そうとすると虚しくうらぶれた気持ちになってしまうのではないかと思う。
自分の、女として・人間としての価値が、金額で示されたら?とても正気では生きていけないと思う。

では何で自分の価値を測る?
職業?学歴?肩書き?成績?収入?
何人友だちがいるか?どんな場所に住んでるか?
なぜだ。
愛することはあなたがそこに在ることをただ認めることだった。
その人の価値はその人がそこに在ること以外にないでしょう。
なぜ人間はこんなに遠回りをして、自分の価値って?なんて思うんだろう。
そういう風に何かに換算されなければ、自分が今ここに在っていい、と思えないだろうか。