2013/01/20

愛や欲望や存在

「恋は欲望だ」
「愛は相手がそこに在ることをただ認めることだ」

欲望心とでもいうか(きれいにいうと恋心)が強い…。
自分を愛しもせず「相手のため」と言ってしていることは、結局自分のためだ。
相手の心に触れようとしていないから、そのあざとさが伝わってしまうようだ。
だからその人は愛されない。

セックスをするとぽっかり空いた心の穴がその一瞬埋まったような気がする…気がする…気がする…だけ!

ここで間違っていけないのはそれはあくまでそんな気がするだけだということだ。

埋まらないのですよ。そんなことをしても。何百、何千回しても、心の穴にパズルのピースのように相手を押し込んでも、それが決して自分の心の穴を埋めることにはならない。

セックスがきもちがいいのは、相手の心に触れたから。相手のことを本気で見ようとした、相手もあたしを見てくれたから気持ちがいいのです。

相手を受け入れないでするセックスは相手の体を利用した自慰。

園子温の映画を観たり二村ヒトシさんの発言を聞いてると愛や恋や自己肯定やセックスや親について考えすぎる。
園子温の映画は親の愛を得たかったけど得られないまま大人になってその自分を持て余して狂ってしまった人の映画。
昨日観た「恋の罪」の美津子(冨樫真)もそうかもしれない。

これだけやってあげてるのだから、これだけ返してよ、と求めるのはあさましい?セックスするのなら金を払え、と売春婦のような気持ちも…そんな風に思うのは私だけ?
セックスしたからと言って愛してもらえるとは限らない。
得られるか分からないあやふやなもののために大切な体を差し出すなんて…自暴自棄にでもなってなければしない。

愛情←→体
体←→金
愛情←→金
?????

美津子が、「愛してなければ金を取れ!その五千円はあんたがあんたの体を使って稼いだお金!今菊池いずみという名前が意味を持つ瞬間なのよ!」とがなる。

そこに意味を見出そうとすると美津子のようにおかしくなってしまうかも。
美津子は売春の額にはこだわっていなかった。
(東電OL殺人事件の被害者も風俗店に属さず立ちんぼになって個人的に客を取る危ない売春をするようになってからは数千円でも売春していた)
お金に自分の価値を見出そうとすると虚しくうらぶれた気持ちになってしまうのではないかと思う。
自分の、女として・人間としての価値が、金額で示されたら?とても正気では生きていけないと思う。

では何で自分の価値を測る?
職業?学歴?肩書き?成績?収入?
何人友だちがいるか?どんな場所に住んでるか?
なぜだ。
愛することはあなたがそこに在ることをただ認めることだった。
その人の価値はその人がそこに在ること以外にないでしょう。
なぜ人間はこんなに遠回りをして、自分の価値って?なんて思うんだろう。
そういう風に何かに換算されなければ、自分が今ここに在っていい、と思えないだろうか。

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